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アルブレヒト2世 (オーストリア公) : ミニ英和和英辞書
アルブレヒト2世 (オーストリア公)[あるぶれひと2せい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [こう]
  1. (n,suf) prince 2. lord 3. duke 4. public 5. daimyo 6. companion 7. subordinate

アルブレヒト2世 (オーストリア公) : ウィキペディア日本語版
アルブレヒト2世 (オーストリア公)[あるぶれひと2せい]

アルブレヒト2世Albrecht II., 1298年12月12日 - 1358年8月16日)は、ハプスブルク家出身のオーストリア公(在位:1326年 - 1358年)。父はドイツ王アルブレヒト1世、母はケルンテン公マインハルトの娘エリーザベトで、兄にルドルフ3世(ボヘミアルドルフ1世)、ドイツ王フリードリヒ3世(美王)、オーストリア公レオポルト1世が、弟にオットー(陽気公)がいる。「賢公」(der Weise または der Lahme)と生前から渾名された名君で、領民から慕われた。政策としては、ルクセンブルク家ヴィッテルスバッハ家、そしてハプスブルク家の三つ巴の時機にあって、平和路線に沿った外交を行った。在位中に戦争は1回しか行わず、その1回の敗北でスイスが事実上の独立を果たすが、こだわらず内政に没頭し、ハプスブルク家が「オーストリア家」として基盤を固めるべく奔走した。
== 生涯 ==

=== 家督の相続まで ===
アルブレヒト2世はアルブレヒト1世の四男として生まれた。当時のドイツ諸侯は広大な教会領から上がる莫大な高禄を狙って、次男・三男を各地の司教や大修道院長に送り込むのに躍起になった。アルブレヒトもバッサウ司教に選出されたが、教皇ヨハネス22世1317年、理由は不明であるがアルブレヒトの司教就任を拒否した。アルブレヒトは聖界の道を断たれ、俗界に戻ることとなった。兄たちにとって厄介者となったアルブレヒトは、1324年にプフィルト伯爵家の女子相続人ヨハンナを娶ることとなった。プフィルト伯爵家は祖父ルドルフ1世の忠実な与党であったが、ハプスブルク家よりは格下であった。
アルブレヒトの3人の兄のうち、長兄ルドルフ1307年にすでに死去していたが、1326年レオポルトが、1330年フリードリヒ美王が相次いで死去した。兄たちの遺児に男子がいなかったため、アルブレヒトと弟のオットー陽気公がハプスブルク家領の共同統治者となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アルブレヒト2世 (オーストリア公)」の詳細全文を読む




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